2009年

ーー−10/6−ーー 焚き火にクレーム

 庭で焚き火をしていたら、「環境パトロール」と書かれた車がやってきた。降りたのは市の職員で、「近所から煙の苦情がきている」と言った。何を燃やしているのかと聞くから、雑草を刈って乾かしたものを燃やしていると答えた。こんな事は、20年近く住んでいて始めてなので、ちょっと驚いた。

 安曇野市では数年前から野焼きが禁止になっている。例外として認められているのは、枯れ草、落ち葉、剪定枝だけで、それ以外は焚き火で燃やせないことになっている。ダイオキシンの発生を防ぐためというのが理由。引っ越してきた当時は、家庭のゴミを庭で燃やす事が日常的に行われたものであった。その禁止令が出たとき、あまりに突然かつ極端な変革に、違和感を抱いたのを憶えている。

 環境パトロールは、「雑草なら燃やして良いが、なるべく近所の迷惑にならないようにやって下さい」と言った。そして「クレームが来ると、一応出動しなければならないので」と、少し申し訳なさそうに言って、帰って行った。

 今まで通りにやってきた事に対して、突然クレームが付いたので、ショックを受けた。しかし、クレームをつけた人の言い分は分からない。おそらく、洗濯物が汚れるとか、臭いが付くとかの理由ではないかと思った。そこで、翌日からは、裏庭で、夕方に、少しずつ燃やすことにした。これなら、近所への影響はほとんど無いと思った。

 3日ほど経ったら、今度はメールが来た。差出人はニックネームで、心当たりは無い。どうやって私のメールアドレスを知ったのかも分からない。このホームページのリンクから来たのか。

 メールの文面は丁寧で、攻撃的なものではなかったと言っておこう。役場を通じてクレームをしたが、それでも我が家が焚き火を続けていると指摘した。気管支が弱い体質なので、わずかな煙でも喉が痛くなる。時間は関係ないし、閉め切っても家の中に入ってくる。だから焚き火は止めて欲しいと書いてあった。

 私は「我が家の煙で喉が痛いということなら、一度お見舞いに伺いたいので、お名前を教えて下さい」と返事を書いた。それに対する返答は無かった。いまだにクレームの主が誰なのかは分からない。

 少し前になるが、市の広報に野焼きについての注意書きが掲載された。野焼きに対するクレームが多発しているので、許されている範囲のものを燃やす場合でも、周囲の迷惑にならぬよう注意して行うようにとのことだった。

 住みにくい世の中になったものだと思う。以前は自由に行えた事が、今では圧力をかけられて、行えなくなる。それに対する見返りは無く、一方的に利便性が奪われる。

 こういうクレームをする人の中には、具体的な被害は無くても、「条例で決まっていることは守らせる」という、法の番人タイプの人もいるだろう。あるいは、自分の価値観、自分の信じる常識で、「こうあるべきだ」を主張し、「我慢する理由など少しも無い」という立場の人もいるかもしれない。

 私の元に届いたメールにも、「近隣の家が密接した宅地」とか「北海道の大平原ではないのだから」などという表現があった。しかし、ほんの十数年前までは、この辺りは田んぼと、畑と山林であった。現在でも、田んぼ二枚分くらいが虫食い的に宅地化されただけで、基本的には農業地域である。田んぼや畑の雑草を燃やす風景は、いわば田園地帯の風物詩であった。

 私は子供の頃、東京都中野区の住宅街に住んでいたが、落ち葉をかき集めて焚き火で燃やすのは、よくある光景だった。夕方になると、家々から風呂を焚く煙が上がった。その煙が、夕暮れの街角にたなびき、その臭いで子供たちは家へ帰る時刻を感じたものであった。人が暮らしている所には、煙が上がっていたのである。

 昔の事が全て良いという訳ではないが、樹木という自然物を燃やすことに対して、過剰に神経質になるのは、如何なものかと思う。

 ある種の化学物質を燃やすと、ダイオキシンが発生する。それは止めなければならない。しかし、そのような化学物質が家庭に入り込んだのは、たかだか数十年前からである。一方、人間は木や草を燃やすという行為を、有史以前から続けてきた。化学物質による害を無くす目的の規制が、人間本来の営みまで禁止することになれば、それは問題だろう。

 農業地域の中に、こつ然と現れた数件程度の住宅地によって、昔から続けて来た業務に支障が生じ、困惑している農家もある。



ーー−10/13−ーー 思い出の人物

 先日、白洲次郎のドラマが放映された。その中に、戦後広畑製鉄所の売却を巡って、白洲次郎と争った永野重雄という人物がいた。二人が銀座のバーで殴り合いの喧嘩をしたのは、実際にあったことらしい。子供の頃から喧嘩が強かった白洲が、ドラマでは永野に打ち負かされていたが、永野は柔道がめっぽう強かったらしいので、それも事実だろう。

 永野氏は、新日本製鉄を設立するなど、戦後日本の経済界をリードした人物である。その永野氏と私の祖父は、学生時代からのごく親しい仲だったと、母から聞いたことがある。その話は、祖母から伝わったのだろう。中にちょっと面白いエピソードがあった。

 新婚家庭に、亭主の友人数名が遊びに来た。亭主とは私の祖父である。どうせ冷やかしに来たのだから、からかってやろうと、紅茶の中に砂糖ではなく塩を入れて出せと妻に命じた。妻はそれに従った。出された紅茶を、友人たちは一口で飲むのを止めたが、一人だけ黙って最後まで飲み干した男がいた。

 後日、亭主はその男に向かって、あれは悪戯だったと白状し、「それにしても、よく平気な顔をして塩辛い紅茶を飲んだものだ」と疑問を呈した。男は、「新婚の奥さんが、砂糖と塩を間違えたと思った。奥さんに恥をかかせては気の毒だから、全部飲んだ」と答えた。それを聞いた妻は「世の中には立派な人がいるものだ」と驚いたという。

 妻とは祖母である。そしてその塩味の紅茶を飲み干した男が、永野重雄氏であった。



ーー−10/20−ーー 国会図書館に納本

 誰から吹きこまれた事なのか、今となっては定かでないが、私には「自費出版本は国会図書館に入らないから意味が無い」という思い込みが、若い頃からあった。出版社から発行される本(商業出版本)は、必ず国会図書館に入る。国会図書館に入れば、国の管理の元、永久に保存される。それが大事なことなのだと、思い込んでいた。

 「自費出版本は国会図書館に入らない」というのは、実は間違いである。全ての出版物は国会図書館へ納入することになっており、それには自費出版本や、同人誌なども含まれる。しかし、商業出版本がもれなく納本される制度になっているのと違って、自費出版本は寄贈という形を取る。従って、著者や発行者がその気にならなければ、納本は行われない。

 ちなみに商業出版本は、取次会社を通じて、言わば自動的に納本される。そして定価の5割の金額を、国会図書館が支払う形になっている。何故5割引きなのかは、分からない。

 この3月に出版された私の本。およそ半年の間、思い出すたびに、国会図書館の蔵書検索サイトで調べたが、いつも「該当する書籍はありません」だった。それが先日、ようやく入っていることが確認された。取次会社のシステムによって、かなりの時間差が生じるようである。ともかく、嬉しかった。多少間違った認識が含まれていたとしても、願いがかなったことは間違いない。

 「現在と未来の読者のために、国民共有の文化的資産として永く保存され、日本国民の知的活動の記録として後世に継承されます」という世界に、自ら加わることができたというのは、うぬぼれという批判は覚悟の上で、誇らしい気持ちがする。



ーー−10/27−ーー 精緻な加工の安価な土産品


 画像の品物は、小さな容器である。女性の装身具、指輪やイヤリングなどを入れる目的のものか。私が20台後半の頃、勤めていた会社の出張で中国へ行ったときに、どこだか名前は忘れたが、田舎町の土産物屋で買った品である。

 値段は、口にするほどのものではなかった。ほんの軽い気持ちで買った、旅の途上の気まぐれな買い物であった。買ってみたものの、特に気に入ったわけでもない。

 自宅に持ち帰ってからも、これといった地位は与えられなかった。捨てられずに残っていたのが不思議なくらいである。そんな状態で、およそ30年が過ぎた。

 つい先日、普段はあまり出入りすることのない部屋の机の上に、この品物を見た。「なんだ、まだあったのか」という、どうでもよい印象だった。しかし、その表面に描かれた模様に目が止まったのは、先月信濃美術館で見た、正倉院の工芸品の象嵌細工を思い出したからだろう。

 この品物の蓋には、細い線で模様が描かれている。中央の円形の図柄を挟んで、蝙蝠のような動物が向かい合っている。購入した時以来、その模様は細い筆で描かれたものだと思い込んでいた。今から考えれば、この0.2ミリくらいの細い線を筆で描くというのも、簡単なことではない。しかし今回、その模様が、なんと象嵌されている物だということに気が付いた。

 模様の線の一部がわずかに持ち上がっていたのである。そこをルーペで観察したら、銀色の金属線のようなものが見えた。それをカッターナイフの刃の先端でほじくってみたら、溝に納まっていた線が出てきた。表から見える線の幅は0.2ミリ弱、溝にはまっている奥行きは1ミリ程度の、ごく細い帯状の金属線である。そんな細い線を、木材(たぶん紫檀)の表面に掘った溝に埋め込んで、模様を描いているのだ。

 これは恐ろしく細密な加工である。引っ張り出した線を元の溝に戻そうとしたが、手こずった。線がうまく溝に入らないのである。ちょっと力の向きが狂うと、線が捻じれてしまう。ルーペを覗きながら、カッターナイフを2本使って、それらの切っ先で金属線の形を整えながら、やっとのことで入れ直した。ルーペの視野の中で、ナイフの先端は鈍重なほど大きかった。

 いったいどのような技法でこの象嵌を施したのか、見当も付かない。0.2ミリに満たない幅の溝を、どうやって掘ったのか。しかも直線ではなく、曲線を繋げた模様である。中には直径2ミリほどの円も描かれている。どうしてそのような加工が可能なのか? そして、その微細な溝に金属線を、まるで一筆書きのようにして入れ込む技とはいかなるものか?

 この装飾を施すのに、いったいどれくらいの時間がかかったのだろう。この安価な土産物に、何故これだけの手間をかけるのか。その執念ともいうべきものは、いったいどこから来るのか。





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